田舎僧侶の暮らし

けっこう長芋が好きな坊主のブログ

読書感想文『仏教抹殺~なぜ明治維新は寺院を破壊したのか~』

 

 

この本、2018年に出版されていて、2018年といえば、明治になってから150年が経過した節目の年。大河ドラマも「西郷どん」だったし、鈴木亮平もムキムキだった頃だ。

 

そんな、新時代幕開けとなった明治だが、その明治維新期におきた、「神仏分離令。」

 

それによって、神社と寺院が区別され、仏教排斥運動がおきた。

 

それが、「廃仏毀釈。」そんな当時の状況をまとめてくれたこの著書。

 

 

鵜飼秀徳:『仏教抹殺〜なぜ明治維新は寺院を破壊したのか〜』読了しました。



 

 

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《今日の背景》仁王像の左足

 

 

 

明治150年でも語られない闇の部分、それが廃仏毀釈だ。神社と寺院を分離する政策が、なぜ史上稀な宗教攻撃、文化財破壊にエスカレートしたのか?日本各地に足を運び、埋もれた歴史を掘り起こす、近代史ルポタージュ。

 

 

廃仏毀釈を受けた仏像は首がない

 

 

 

明治になるまで、神社と寺院は神仏習合の形態で、神と仏が混じりあった状態で共生してきたわけだけども、明治になり、天皇を中心とした国作りを目指した。

 

その流れを受けて、神道を国家宗教とする目的として、「神仏判然令」を出し、神社と寺院を切り分けた。

 

これが、廃仏毀釈運動へと繋がっていく。

 

 

首がない仏像とか私の寺にもあったりして、それを見ると、この地域でも廃仏毀釈があったことを物語っている。

 

 

この運動は、民間での運動から始まったみたいで、当時の国家は、神と仏を分けるだけの政策だった。

 

 

これを拡大解釈した各地の為政者や民間人が仏教排斥だ!というノリで、バンバン仏像の首を刎ねていったんだってね。特に、薩摩や宮崎の地域が激しかった。

 

 

ただ、そんな行動が各地で広がったということは、当時の仏教界に対する、負の感情が溜まりに溜まっていた背景が、もちろん存在している。

 

 

若澤寺は祈祷寺で檀家数80軒ほどと少なかった。経済力がなかったことが復興を果たせなかったひとつ要因ではありますが、若澤寺はもっと別の問題を抱えていました。

記録によれば、若澤寺の僧侶の堕落があまりにも酷かったようなんです。当時、僧侶は原則独身を貫くことになっていましたが、実際のところは妻を娶った僧侶は多かった。

檀信徒は住職の妻帯は黙認してはいましたが、妾を囲うようなことまでしだした。住職が遊女の元に入り浸り、檀家の顰蹙を買っていたというのです。

折しも廃仏毀釈の命令が下された時、地域住民や檀信徒は「こんな堕落した寺は必要なし」と、むしろ率先して若澤寺の廃寺に手を貸したと言われています。p112

 

 

廃仏毀釈によって廃寺になったお寺でも、その後復興している寺院もある中で、この例のような復興しなかった寺もあるそうで・・・・・

 

復興できないのは、廃仏毀釈のせいだ!と必ずしも言い切れない寺も、当時から存在していた。

 

政府が「神仏判然令」を出したからといって、やむをえず寺院を廃寺にしていったわけではないということもあって、堕落した僧侶の存在が、むしろ廃仏毀釈を押し進めた要因になっているなら、それは自業自得だったんじゃないか。

 

そうなると、僧侶は悪くても、寺院自体はなにも悪くはないじゃないか。

 

ということで、廃寺処分を受けたお寺も再活用されている。

 

 

同時期、廃仏毀釈運動と並行するように、国内では近代教育の議論が熱を帯びていく。

1872(明治5年)年、学制が発せられると、限られた財源の中で、効率的に学校建設がなされていった。

寺院の校舎への転用、あるいは破壊された後の建材の再利用は、ごく自然の流れであった。p107

 



 

天皇が火葬された時代もあった。

 

 

天皇の葬式はずっと、神式の葬儀だとばかり思い込んでいたけれど、そうじゃなかったのね。それはこの本で初めて知ったよ。

 

 

1242年(任治3)年、四条天皇が12歳の若さで崩御する。

泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは「皇室の御寺」と呼ばれるようになった。

さらに、南北朝時代の1374(応安7)年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬されたのを皮切りに以降、9代続けて天皇の火葬所となった。

江戸時代も歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后は全て泉涌寺に埋葬されている。

 



天皇の埋葬方法も時代によって、火葬だったり土葬だったりした時もあって、日本という国が神道と仏教の、2つの宗教が混ざり合って歩んできた歴史をしることができた。

 

そんな、「皇室の御寺」と呼ばれた場所でさえも、神仏分離政策の流れに抗えず衰退してしまっている。



まとめ

 

時代が明治に変わり、神仏判然令が出されたことで起こった、廃仏毀釈。

 

それによって、今現在まで残っていれば、文化財的価値のあった仏像、仏具などが数多く失われた。

 

けれども、廃仏毀釈の運動は1876(明治9)年くらいに収束し、復興を遂げた寺院も全国各地にある。

 

文化財が数多く失われたのは残念だけれど、ある意味、廃仏毀釈によって、それまで堕落していた僧侶をはじめとした仏教界が、いったん淘汰されたと見ることもできる。

 

廃仏毀釈がおきたのは、明治という時代のせいじゃないと私は思うし、令和のいまだって、同じ現象が起きても不思議じゃないと思う。

 

お寺離れ、葬儀の簡略化などなど、時代が常に変化していく中で、再び仏教界が淘汰されていくだろうと私は思う。

 

そんな時代になってくるかもしれない中で、この明治におきた廃仏毀釈から学ぶことは、きっと少なくないよなぁ〜て思ったよ。